私は海外に出向いた時、料理をする事とは別に、飲食サービス業界を取り巻く、お仕事をされる、あらゆる方から、常にインタビューを受けます。ホテルの一室で難解な「質問攻め」に遭うのです。その中で最も多い質問…それは
「シェフ山本の料理を一言で語って下さい!!」
これ、びっくりする程、頻繁に受けるのですが、
それは「和食です…。」と答えた事は、かつて一度も無く、私の日本料理に対する想いは今までの活動の中で、私自身の人生を賭けて世界の舞台で残して来ました。これはそんな時のお話…。
日本料理を一言で語る??なんて、出来る訳が無いので、これを聞かれたら、まず逆に、聞き返します。
「一言??一言で語る事に、どんな意味や狙いがありますか?もし、私が一言で、語ったら、あなたはその一言で日本料理が理解出来るの?」
まず最初に、やり取りする、いつもの形… すると…
「いえ、日本料理を語って下さいなんて言っておりません。日本料理をされているシェフ山本の“個性”として、そのスタイルの形を、あなた本人がどのように定義されているのかだけが聞きたいのです。」
あ〜あ、また出た…。その“個性”って言葉…。
ここまでが、いつものパターン…ほんとにいつもこのパターン。
私は言います。
「私は自分の料理、そのものの中に個性を宿す事を目的として、料理を作っている訳ではございません。“オリジナリティ”そして“個性の時代”というような言葉だけが、今のトレンドのように、一人歩きしているような気がするのですけど“個性”ってまず、「これ、俺の個性…」みたく、自分で語るようなものなのですか?」
と、また聞き返します。
私は質問されても納得出来る内容だと、自分が判断した質問にしか、絶対に答えません。答える事に意味を感じない質問に対する、その答えは言葉に責任が持てないからです。
そんなやり取りをすると、皆様非常に驚かれます…。
「私達、びっくりしております。シェフ山本は自分の“個人”としての“個性”を全面に出して料理を作っていないのか…私はそうとばかり思っていた…」
このように、返されます。コレ、必ずそう返されます。
私は言います。
『私は私個人の個性なんかより、よほど大切にお客様にお料理の中で届けたいものがあります。私の住む日本には、それが「山ほど」あります。日本の自然環境に育まれて育った、“素材達の言葉”です。それを姿形を変え、素材が発する声の源を自分のメッセージに作り変えてまで、僕個人のものにする…そんなもったいない事を私はやらないのです。なぜなら、私自身、自分の技術や自分の個性より、よほど、日本の自然環境が育んだ素材の力を信用しています。素材達の前では自分は“黒子”(この言葉良い訳が無い)ですもの…。』
自らの生まれ故郷である、日本の産する食材に自分が誇りを持てなくなったら、どこのどんな国の物と比べても、日本料理を造りあげる上の、素材が見つからないと本気で思うようになったら、そこで初めて私、自分の技術とコンセプトとテクニックと個性とオリジナリティとクリエイションで自分のネーミング看板を掲げて料理を始めるかもしれませんがね…。
だって、私の作る料理には何にも処理をしていない、活きた川魚に塩を振って、電気もガスも使わない、炭で焼いただけの料理もあるのですよ。しかも、スペシャリテとして…」
大体、この辺りで少し難しい顔をされます。でも全く動じず話します。
魚に塩を振って、焼き上げる“塩焼き”って料理が誰のオリジナルとか、個性とかって話になるのだったら、じゃあ、この世の魚の焼物はみんな、誰かのパクリって事になるんじゃないの?
そんな事より私個人の料理じゃなくて、今ここで「日本料理」を知ろうとはしないのですか?
「私、日本料理の事なら日本料理界の料理人の一人として、一生懸命話しますが、別に個性を誇りにして、自分売ってるジャンル料理を、私やってません。コンセプトをまず専攻して、料理を作っている訳でもなく、僕が担いでいるのは、自分では無いのです。だから日本料理人として、私個人を話す事に意味を感じないのですよ…」
「ただ、料理業界へのテクニック的な発信は個人的にもやっていますよ。でもそれは、お客様に向けて届けている訳ではなく、世界のシェフ達とあらゆる事をシェアする為に、こちらが出しているものですから…。
料理をただ、スタイルとして聞きたいだけなのですか?
日本料理に込められた私自身が向き合い心を傾けている、そして第一に、お客様に向けて実際に私が、お届けしている日本料理に込められたものにあなたは興味が無いのですか? リアルはそこにしか無いと思うのですけど…」
と、ここまで話すと、やっと
「じゃあ、その日本料理とやらを教えてよ…」
となります。
僕の事を下調べして、YOUTUBE動画だったり、あらゆる本の中の言葉だったり、いろいろな資料を握りしめて最先端機器やサイエンス的な事ばかりを聞きたがるのですが、全く答える気は初めっからありません。私はまず、お客様に自分の料理のプロセスを見せたり、自らが何かを喋りながら、料理を出すというスタイルを不器用が故に選んでいない…。
よし、ここまでが準備体操。まず相手に、日本料理を受け止める心を持たせてあげ、その心の窓が開いてから、話を聞いてもらう。そうしない事には、目の前のシェフに対する興味だけしか持って帰ってはくれない…。
そうなれば、私がインタビューを受ける立場の意味が全く違う物となり、これでは海外で日本料理を啓発するせっかくの大切なチャンスを一回無駄にしてしまう。その人が私の一部にだけ向き合って、こちらも調子に乗って、そこをホイホイ話すと、“質問は以上です”となりかねない。もう、何度もやってるからだんだん要領もよくなる…。
私は常に、自分の心に日の丸を立てて、日本料理の世界発信の為だけに海外まで来ているのだ。
日の丸に注目が集まり、日本国民が一丸となって心を一つにする…
夜中でもテレビに齧り付く。日本が負けたら国民のテンションまで下がる…みたいな、まとまった心理…。
自分が全くプレイした事なくても、本能的な日本人としての心がそうさせる…その位の魅力がある…
世界と戦っているリアルがある…
それってスポーツの世界だけなのか…
自分達が普段、口にし、体に取り込んでいる食事は満腹中枢が満たされれば、何でもいいって訳がない。
食に対する我が国の誇りをもっと人々の心に伝え、日本の『食の豊さ』の価値観を日本国内でも、もっと上げていかなくてはならない。
『世界に誇れる日本料理』のはずなのだ!!
グローバルな価値として、通用しなければ
“日本の料理人”は、素晴らしい料理を造りあげる事は出来た人達… だがしかし、その素晴らしさを世に知らしめる発信は出来なかった人達…という烙印を押されかねない。
『秘すれば花』は日本から一歩出てしまえば、海外では全く通用しないのだ。
日本の自然環境の豊かさを取り込める感覚に浸れる食事というものの教育を、我々は子供の頃から、食卓の中で当たり前の事として訓練されて来ている。
その尊さ、誇り、大自然に対する想い、本能的にDNAに響き渡る、この我が国が世界に誇れる本物の一つ…日本料理。この価値と我々の魂と精神を語る為に、私はこの場に座っている。
重要なのは、私の言葉の内容ではなく、私が連れて来ている“日本料理”が相手の心にどう、受け止められるか、なのだ。だからこそ、自分の発する言葉には、大きな責任が発生する。別に私自身がどんな料理人かを話す事は、ここでは、あまり重要ではないし、今日の目的でもない。
「それよりまず、私の話を聞いてくれ… 5分だけでもいい」と言いたくなる。
そういうやり取りをしてから、やっと話が始まるのです。
まず、日本料理は歴史、伝統、文化に裏打ちされた、私達の先人達が築き上げ、残して下さった日本の職人技です。
それを、時の流れと共に、ゆるやかに人々に求められるがままに形を変え、その時代の人々の感性を具現化し、精神を愛で合いながら、現代まで継承されて来たのです。
伝承、継承されてきたと言っても、日本料理は形を習って形を継承していく事に、さほど重きを置いている訳ではございません。その時々の日本の自然環境の豊かさの象徴として、それを料理で人々に届けていく…その、精神、そしてその、自然への敬意が日本国の誇りとして、これまで継承されて来たのです。
でも、ここまでの話なら、別に私が話さなくても日本料理に携わっている方なら、誰でもこの場で話せる事です。
作られて来た料理を、同じレシピで作り上げていく事は先人達が、敷いてくれたレールの上を、ただ、なぞらえて歩くだけになり、あまり感心出来ませんが、精神の継承は今も昔もずっと、それは変わらないものです。変えようと思っても、そこから出て行った先には何人たりともついては来ない。
日本料理はただ、皿の上の料理そのものだけを伝統として語っているものでは無いのです。目に見えないもの、皿の中に込められている作り手の心、例えば“時”を捉えて料理を作る事。
秒単位で味わいのピークが変わりゆくようなもの。なぜ、鰹節の出汁を引いてから2分以内に供するのか…それが相手に伝わろうが伝わらなかろうが、何の為にこれを、こうするのかっていう理由をもって、料理を作っている限り、理(ことわり)のないものを、日本料理とは言いません。
ですから、私が日本料理と謳って、料理を作っているとしたら、自身の個性を語る事には、意味が無く、皆で愛で合える“精神を伝える料理なのだ”という事が今、お解り頂けましたでしょうか。
日本料理は、まず“物質的なものだけを捉えたものではない”と言う事を、心に留めて下さい。お料理は美味しさがいかに大切かは、誰もが分かる事ですが、「美味しい」という言葉には沢山の“美味しさの質”があるのです。私の料理は私が人為的に美味しくした料理を、お客様に提供している訳ではございません。美味しさに質がある事が分かれば、舌を満たすもの。心を満たすもの。感覚と興奮を刺激するもの。それら何が何をどんな風に、満たすのかが分かってくる。これが精神。
自然界にある、素材は人の手で作る事は出来ません。私は人の手で作れないものが、最も尊いものだと考えます…。日本料理のキッチンに入ると、
“さて今、目の前にある、この素材達に対して、あなたは今日、どんなアプローチを仕掛けますか?この素材達の声を、素材達が聞かせてくれた心の声として、ありのままお客様に伝える事が出来ますか?さあ、お答え下さい…”
という無言のルールに対して白衣を纏い、キッチンの中で素材と自分との関わり合いを、その日の結果としてお客様にお伝えしていくのが日本料理です。
これを大切に守れば、出来る事、出来ない事、やった方がいい事、やらない方がいい事、全てが作り手側の“心の在り方”を問われながら、包丁を握る事になります。
自分のテクニックを素材に対し、構えて操作するのではなく、その素材達の声を聞き分けながら、その子達が生きてきたエネルギーを、そこに宿してあげる…。
この素材がこうして欲しそう…ああして欲しそう、その言葉のお手伝いが出来るようになる事を我々、日本料理では料理の修行と言います。
そこで素材と繰り広げた会話の結果が、その人の持つ、技術という訳です。お料理は自分の手元で出来上がった時点では、まだ完成してはいません。お客様の元に届いた時が50%…残りはここから…。
まず料理は目には見えない、味よりも先に届くものがあります。
視覚に訴え、嗅覚に訴え、温度を感じ、それと共に食べるまでの美味しそうという、感覚、これも我々がコントロールして、料理したもの…
特に温度はそれに伴った香りまで御馳走に変えてくれる、とても重要なもの。
温度も香りも全て、私が管理して、その素材が内に秘めた魅力をお客様の口の中で瞬時にお伝え出来るように、素材と会話して、これだと決めた重要なものです。皿の上から聴こえてくるのは僕個人の声ではない。
例えばピザが温度の減少と共に、どのくらい味わいが下がっていくか、誰もが知っています。ビールにもワインにも全て温度を味わうという厳密には味覚とは違う、感覚がいかに大切か分かりますよね。
まず、日本料理は、この目には見えない御馳走を届けるという事に対し、
料理「理(ことわり)を料(はかる)」しなければならない。
そういう、基本があるのです。日本料理屋は料理だけを売っている訳ではございません。それは別に、設えとか格式とか、そういう事を今、言っている訳でもありません。
これまで確立されてきた日本料理の様々な表現の中で、私は
「精神に訴え、心に響かせる」
という感覚をお料理の美味しさと共に、更に追求する事が出来れば、人々を
「料理で癒す」事だって出来るはずだと信じております。
日本には『医は仁術』と言う言葉がありますが、料理も仁術でありたい…。それは人に対しても、扱う素材に対しても…。
その言葉を借りて、一つの例えをさせてもらうなら、
人は皆、誰もが美味しい物をどうしても食べたくなる衝動に駆られます。過去の食の経験値の中で刻まれた、それらの感覚が、脳の中で呼び覚まされるからです。それは日常における、発作現象であり、人間が生きようとする力と大きな関わりがあります。脳が空腹命令を出した時に、お腹が空いただけではなく、同時に何を食べて、それを満たしたいか、ほぼ同時に感覚として伝わりますよね。
いうなれば、それは“健康的に精神に依存した感覚、及び欲求”だと定義出来ると思います。それは美味しいものを食べれば、食べる程、知れば知る程、益々更なる上質のものを食べたくなる。その欲求を満たさなければ、目には見えないフラストレーションに心が冒されてしまう。食べ物が幸せな感覚を伝えてくれる重要な役割を果たす事を、人は皆、知っているからだ…。
例えが悪くて申し訳ございませんが、私は「美味しいもの依存症」という、健康的疾患を常に患い、その欲求が日常的に起こる素敵なグルメの方々を毎日迎えます。その症状を治癒する為に私は、“日本料理”という日本古来の“秘薬”を用いる…という手段を選んでおります。日本料理で人々の心に対して向き合って、その人を愛する気持ちで料理を提供する事は、単に空腹を満たして美味しい物を食べたという、身体に対する満足感だけではなく、精神に対する、自らのDNAに響くような、誇りを呼び覚ます感覚を料理と一緒に、私は処方したいと考えております。
香り、温度、食感、質感、素材感、季節感をそこにブレンドする事によって、その“秘薬”は完成します。そのような感覚を刺激されないものを処方しても、効果はさほど出ません。味わいと心が同時に満たされる感覚が無ければ、満足出来なくなってくるのです。言い換えれば「美味しいという感覚」は、それらが伴って初めて美味しいと感じるようになるのです。
その心を持って、料理と関る事…これが仁術という感覚ではないのかと…
それをフルにお伝え出来れば、初めて100%となる。
それを“御馳走”と呼ぶ、御馳走とは素材だけではない…。
どんなに極上の素材でも、それだけでは御馳走にはならない。しかし、素材の中に御馳走は詰まっている…。それを、ピュアな形で素材の心を傷つけず取り出したり、そこに残したりする事を心技という。心が無くては料理ではない…それは作業。心技を持たなければキッチンでは料理では無く、作業にしか関われない。
しかし、その100%が100点になるとは限らない。100点は絶対に自分では付けられない点数…。なぜなら、それを決めるのは我々ではないからだ。
受け取って頂き、心に届いたものにしか良い評価は得られない。プロフェッショナルとして生きていくには、そういう厳しい世界で生きていく事に気概を持って覚悟を決めなければならない。
お客様に、ご満足頂けるかどうかの厳しい評価には毎日晒されます。様々な方に美しい記憶として、その後も残してもらえるのかどうか、という事です。
「美味しいもの」と「いいもの」は“別”です。
いいものの良さは、確実に『いいもの』として伝えたい…。日本料理は、その食事を一度経験すると、経験したという事実だけを、持って帰って頂くような料理であってはならないのです。
その人本人が、美味しかった…楽しかった…という、ただ経験値の一つに数えて終わるのではなく、深い記憶の海馬のいい所に、残したくなるような感覚…
目を閉じて胸に手を当てて、人生での自己経験値の中での一つの価値として、人々の心に残してあげられるような料理を、私自身、提供出来ているのかと、自問自答しながら、お客様の心に今日も明日も毎日、大きな責任を持って提供しなければならない。
私が私を全面に出して、私料理をしていたら
“あー、chef山本、1回喰った。龍吟はもう、行ったよね”
ってなるでしょう。料理屋の主として、それが分かるようになると料理で個人を語る事がつまらなく感じてくる。人が作れる楽しさ、エンターテイメント性、驚き、サプライズ、個性的唯一無二のオリジナル感…
いえいえ、それらは全て一個人、『料理人の都合』で作り出せるものです。
日本にはもっともっと世界にリードし、通用し、誇れるものがあるのです。それを料理で伝える事の方が大切なのです。そこを解からずには、日本料理を背負える訳がない。これを私はどれだけ自分の中で悩み、突き詰め、結果、答えとして何を残してきたかを私は今、語っているのです。
素材の声を伝える料理をしよう。それを世界に発信していこう。自分が選んだ料理人としての生き方の先には、素材達が、
「ああ、龍吟で私は、この人の手にかかって料理されて、日本の自然環境の素晴らしさをお客様の心の中に、伝えられるように施されたんだぁ。ここに来てよかったなぁ。」
命を預かった素材達に、そういう風に思ってもらえるような…、季節ごとの素材の魅力に触れる事が出来て、体に収まりゆく食後感で、その方々に喜びと食の経験値のひとつとなったと感じて頂けるような、このように心に届く料理を作りたい。
“テトリス”ってゲームがありますが、ものすごく上手な人がプレイしている画面のように素材達が胃の中の、いい所に収まってゆく様な流れが必要。これが食後感に大きく影響する。
今、私が日本料理を通じて、料理でお客様にお伝え出来る、最大の力は素材との通訳者としての自分。それ以上も、それ以下もない。それが日本料理の料理人としてのあるべき姿であり、これからも残していかなくてはならない生き方だと私は思う。
「私の目標は自然界が日本料理を応援して下さっているかのような、そんな料理人になりたいと思うし、私の店では、そんな料理ばかりを提供したい。
私の大好きなものに、日本が誇る“鮨”があります。人は鮨を作る事は出来ますが、米も、酢も、魚も、山葵も人間だけの力では作れないのです。
しかも“鮨”というものは、人が人の力で作れない物だけしか使わず、完成している。」
“美味しいもの”と“美味しくしたもの”の違い。
「これがどういう事なのか、今、私の話を聞いて、あなたは質問者として、そこが分かってくれなければ、日本料理で表現している美味しさの真髄に対する感覚が、申し訳ないが共通していないのかもしれない…。
ならば、私とこれ以上の話を進める事は難しいと思う…」
いいとか、悪いとかではないのですが、素材感を求めた料理は、美味しくとも美味しさを形容する言葉が違う…。
何とも言えない美味しさは、本当に人が人の言葉で形容出来ないし、したくなくなるくらい、何とも言えないのです。この感覚こそ、最上級。
そんな料理に、私自身『美味しいもの依存症の重傷患者』として、心が反応しているのです。
ですから、ここからいよいよ本題ですが、私は“日本料理”に携わる料理人の一人だという事を今ここで、はっきりと申し上げたい。
日本料理は本来、料理のカテゴリーとしての何かを謳ったり、自身のスタイルを語るものではなく、まずは第一に「食べ手」の心に向けて届けゆき、「精神を癒す料理」で在らなくてはならない。
それは日本の自然環境の豊さを季節ごとに表現した料理を用いて、その皿の上に乗っている素材達のエネルギーによって食べ進める度に、食べ手の心が癒されていく…。
素材の話す言葉は、料理の世界の“共通言語”で話してくれるから、どんな食べ手にも、その方の価値観の中で届くのだ。
言い換えれば私の作っている日本料理とは、自然の力を借りて、そこまで全てを巻き込んで、料理「理(ことわり)を料(はかる)」したものの事を言っています。それが“和食”という事とは違う点だと、私は、私の解釈により区別しているのです。
「和食」は人の愛が大きく関ってくると思います。和の心ですね。技術ではありません。
今、あえて技術という言葉を使いますが、日本料理は技術が必要です。その技術とは、自然の力というものを感じて、料理を続けていく事を繰り返してきた者にしか見えない世界。素材と会話する事が出来るのかという、心の鍛錬、修行レベルがものを言う技術…。
お客樣方に対する美味しい料理への想い、そして、それを食べて頂くお客樣への感謝の想い。自然界から届けられる恵みをもってして、私は料理屋を開業しております。
日本の豊かな自然環境を、素材達が持つ潜在能力で、そのままお客様に伝えられる…。
目を閉じて味わいたくなるくらい、素材の命を頂いている事に感謝が込み上げ、その素材から命の力、エネルギーを頂く。自然界が持つ、最高の旨味、それは素材の存在感…。美味しいものを食べるのと、いいものを食べるのは体の中に収まりゆく感覚が実は違うのです。
そんな日本に癒されているかのような感覚を伝える料理が私の料理なのです。
そしてそれこそが、
龍吟での お も て な し
レストランで楽しめたって感覚は、何をもってして、何を楽しめたって感覚になるのか、日本料理はその本質に迫りたい。
日本料理が毎日レシピ、プロセスの組み立て作業でない事は、まず、自然環境や素材の状態が日々、全く同じではない為、素材の声が何を話しているのかが、変わってくる事に、我々は耳をすましているのです。
日本における様々な料理人のスタイルを分ける仕切りは、その素材から何を聞き出し、その料理人が何を施したかという事だけだと私は思っています。
お客様をもてなす料理を、本当に料理に心を傾け、プロとして知識と経験を持ち合わせた一人のシェフ。そしてそのシェフの元に集うチーム、スタッフやシェフである自分を含め、全員が
『ああ、この料理…私も本当に食べたい…』
そういう欲に駆られながら、料理の持つ色気に誘われながら作り上げ、サービスし、お客様に届ける…。そのバランスと想いが噛み合ない料理をシェフとして責任を持つ事が出来るのかと…。料理は“作品”である前に“食品”として、人の欲に対し、『食べたい』という感覚を、その料理を見る者全てに対し、掻き立てる力がなくてはならない。
私はすでに自然界に対し、自分の心を全面降伏しています。そこから得られるものに対して、通訳者として自分が素材と関れる事に今、大いなる魅力を感じています。そして生涯料理人として、心あるチームと共に龍吟って日本料理屋をやっていきます。
そして今、語り綴った、このお話の意味… それを先程、あなた方が望まれた「一言」で言ってしまうのなら、私の料理は
『日本に癒される料理…Healing Cuisine by Japan』
そう定義して頂いてかまいません。
インタビューの中で、だんだん盛り上がって、私がそう話した、その瞬間……
「Thank you chef!!!
そう、始めから、その一言が欲しかったのー。
でもね、その考え方が、シェフ山本、あなたのオリジナルであり、個性なんですよー!!
インタビューありがとう!」
あっ!やっぱり終わっちゃった…
「あーあ、この一言だけを聞かせて、今の話の全てが伝わる訳がないって分かっているから、一から話したのになぁ…
一言で済むなら苦労は、しないんだけど日本料理に少しでも興味を示して下さって、何か一つでも伝わっていれば、日本料理の未来にとって、ちょっとだけでも役に立ったかなぁ…」
シェフとしての責任… プロフェッショナルとしての責任… 料理屋の主としての立場… 全部抱えて、全部好きで、全部自分の責任で私、やってますから!!
Healing Cuisine by Japan
(自己解釈のこの一言ですが、様々な場所で、そう言葉を残してきました。
おかげ様で今ではSeiji Yamamotoの料理哲学として、インターナショナルな料理界での、私を示す代名詞になりました)